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弘前公園の概要
多くの市民、観光客に親しまれている弘前公園ですが、貴重な文化財が多数混在する史跡と指定されております。
青森県が誇る壮大なロマン
弘前公園(ひろさきこうえん)は、青森県弘前市にある公園。別名は、鷹揚公園(おうようこうえん)、鷹揚園(おうようえん)。古都弘前のシンボルとなっている弘前公園。弘前城をはじめ、日本一の桜や秋の紅葉、冬の雪燈籠など四季折々の美しさがあります。 春には約50種、2,600本の桜が咲き誇る名所としても知られています。 日本の都市公園100選、日本さくら名所100選に選定されています。
弘前城
この公園の品格の中枢となる四季折々の景観は全国でも多く認識されておりますが、もう一つの主役、『弘前城』です。 当時、お殿様が居住していた初代の『天守』は現在は土台すら残っておりません。
最初の天守は弘前藩2代藩主津軽信枚により慶長14年(1609年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物でした。内部6階と推定される建築は僅か4万7000石の大名としては破格の巨大さで東北地方では若松城天守に次ぐものでした。しかし、完成から僅か20年に満たない寛永4年(1627年)に落雷で炎上し、内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失してしまいました。この天守は再建されることなく、跡には本丸未申櫓が建てられました。石垣も大きく改変されかつての痕跡は存在しません。
本丸唯一の現存建築である天守は寛永4年(1627年)に焼失した五重天守の代用として文化7年(1810年)から本丸辰巳櫓を改修し文化8年(1811年)に完成した層塔型三重三階の建物です。高さは約14.4メートルで現存する三重天守の中で最も低く、往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍等の多くで天守として扱われています。昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する事実上の現存天守でもあります。現在は独立式であるが往時は北側に多門櫓を付属させた複合式でした。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されています。
江戸時代には弘前藩津軽氏47,000石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となりました。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城であります。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及んでいました。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、1棟の天守、3棟の櫓、5棟の櫓門が現存しております。
天守は日本に12箇所残されている現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つであり、国の重要文化財に指定されており、司馬遼太郎は『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介しています。司馬遼太郎好きの私としてはうれしい限りです。
津軽統一を果たした初代藩主 為信(ためのぶ)が慶長8年(1603)に計画、2代藩主 信枚(のぶひら)が慶長16年(1611)に完成させた津軽氏の居城です。広さ約49.2ha、東京ドーム10個分以上の敷地は、三重の濠と土塁に囲まれ、6つの郭で構成されています。現在の天守は文化8年(1811)に再建され、弘前城史料館として藩の史料を展示し、当時の風情を偲ばせます。