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弘前公園探検石碑めぐり
追手門手前
国指定史跡の標識
碑の設計は向井寛次郎の唯一の内弟子で、弘前出身の陶芸家高橋一智。
1904−1983 昭和時代の陶芸家。
明治37年5月4日生まれ。河井寛次郎の内弟子となる。昭和22年郷里の青森県弘前(ひろさき)に窯をひらき,津軽の陶土をつかった作品をやく。日本民芸協会同人。こぎん刺しの研究家でもある。昭和58年4月8日死去。78歳。京都市商工専修校卒。
『鷹揚園碑』
弘前公園の雅名は、のちの大正天皇が命名され、名称標示碑は三の丸追手門前と弘前中央高校入口に建立されている。
前田 光世 まえだ みつよ
明治11年(1878)〜昭和16年(1941)
講道館を代表し、世界に柔道を広める為渡海。2千試合を超える異種格闘技で無敗を誇り、スペイン語で伯爵を意味する尊称を受けてコンデ・コマと称した。ブラジルに移住し、アマゾン開拓の父とも評された。
弘前市立博物館裏手・杉の大橋から未申櫓方向
福士 幸次郎 ふくし こうじろう
明治22年(1889)〜昭和21年(1949)
大正3年に口語自由詩の先駆けとなる詩集「太陽の子」を出版。
新進の評論家としても名高く、大正15年に「地方主義行動宣言」、昭和17年に「原日本考」を発表し、多くの郷土文学者に影響を与えた。佐藤紅緑と親しく、サトウハチローの後見人だった。木々高太郎は弟子である。またユーゴーなどの翻訳もおこなった。1932年に日本ファシズム連盟を結成した
菊池 九郎 きくち くろう
弘化7年(1847)〜大正7年(1926)
弘前藩公の稽古館に学び、外国人の宣教師を雇用するなど、東奥義塾の創設時の中心的役割を果たした。
群長などを経て政界にも進出し、明治22年に初代弘前市長に就任。また、東奥日報社を創立し、初代社長となる。 甥に山田良政、山田純三郎兄弟がいる。
本丸北面
『鷹揚園記碑』
明治41年(1908)、後の大正天皇が御来園され、武田知事が公園の雅名を乞い鷹揚園と命名された記念碑。
『皇太子殿下御手植松』
明治41年(1908)の御来弘の折に、のちの大正天皇がクロマツを植樹。この一角は、宮家や旧藩主の津軽承昭も植樹している。
本丸から緑の相談所に向かう道
伊藤 梅軒 いとう ばいけん
文化12年(1815)〜明治10年(1877)
弘前藩校の稽古館に学び、江戸に遊学。長州萩城下で吉田松陰に面会。嘉永5年(1852)に吉田・宮部鼎蔵が宿泊し、海防を議論した吉田松陰来遊の地は伊藤家で、市の指定史跡として保存・公開されている。
護国神社周辺
蒲田 廣 がつきだ ひろし
安政2年(1855)〜明治35年(1902)
東奥義塾の教師から弘前市議・県議に転向。菊池九郎の委託で東奥日報社の経営に参加、新聞人としても自由民権を主張し活躍した。八甲田山雪中行軍遭難事件が在任中に発生した。代議士として嘱望されつつ、上京中に死去。
一戸 兵衛 いちのへ ひょうえ
安政2年(1855)〜昭和6年(1931)
陸軍の戸山学校に学び、西南戦争・日清戦争に参戦。日露戦争で歩兵第六旅団長となり、後大将に昇進。陸軍三長官の教育総監を退役後、学習院院長や明治神宮宮司として活躍した。
大成小学校などに律意がある。
工藤 行幹 くどう ゆきもと
天保12年(1841)〜明治37年(1904)
弘前藩公の稽古館に学び、民部省などで任官。帰省後は東・北津軽郡長として岩木川の改修請願運動を推し進め、明治23年の国会開設に際し、代議士に当選。進歩党の領袖として活躍し、近衛篤磨らとも親交があった。
『宇都野 研;歌碑』
愛知県出身の医師、歌人。昭和4年に「剄草」を創刊し、当時の成田憲三・笹森壽子(順三夫人)も参画。12年に来弘。
『弔戦没諸霊碑』
明治3年(1870)建立の野辺地・箱館(函館)戦争など、県内最古の戊辰戦争の戦没者慰霊碑。
西舘 孤清 にしだて こせい
文政12年(1829)〜明治25年(1892)
幕末の京都駐在の要人で、佐幕・勤皇の藩論が混乱の折、朝廷の令書と近衛家の教書を携えて帰藩。これが藩論を勤皇に向け、奥羽越列藩同盟を脱したことから、旧城は明治政府による破壊を免れ、旧態を今に伝える。
『大演習賜宴』
大正4年(1915)に開催の特別陸軍大演習の統監で来弘された大正天皇の祝宴記念碑。
丑寅櫓から東内門へ向かう、三の丸側
『消防記念碑』
昭和14年(1939)の消防組織の改革を記念して建立された、園内で最大の碑。護国神社境内に、『消防弔魂碑』もある。