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歴代弘前藩主で追う津軽の歴史
初代 津軽為信(つがるためのぶ)
十八歳で大浦城主四代為則の婿養子となって跡を継ぎ、大浦右京亮為信(おおうらうきょうのすけためのぶ)と名乗る。元亀二年(1571)南部の津軽支配の要であった石川城攻略を手始めに、次々と要城を落とし、17年間でほぼ津軽を手中に収めた。
天正十七年(1589)領地支配を秀吉から認められて津軽藩が成立、文禄三年(1594)堀越城へ移り、慶長8年(1603)には高岡(後の弘前)の町割り、新城の計画など、藩の基礎づくりを行った。
二代 信枚(のぶひら)
父為信の意思を継ぎ、慶長十六年(1611)高岡城を完成した。城下には家臣団を集中させ、また領内の寺社や商工業者を集めて政治経済軍事の中心となる都市を建設。、支配者としての権威を示した。こうして成立した城下町高岡の名は、寛永五年(1628)弘前と改められた。
信枚は、徳川家康の養女満天姫(まてひめ)を正室に迎えて幕府の力を得、反省の基礎固めに役立てた。青森に港を開いたのも信枚である。
三代 信義(のぶよし)
十三湊の切り替え工事、岩木川に改修、新田や尾木(おっぷ)鉱山の開発、また、津軽坂や枯れ木平の牧場を開くなど、産業の振興を図り、特に感慨治水の土木工事に力を入れた。街づくりには、寺町の寺院を南溜池の南側に移し、その跡地を新たに町割りし、品川町や瓦ヶ町などを取り立てた。百沢寺大堂、猿賀堂、大円寺などの建立も信義代に行われた。
信義は、書画に優れ、歌では、中院通茂の門弟であって、愚詠和歌集を遺した。
四代 信政(のぶまさ)
信政は、十五歳で山鹿素行に入門、山鹿流兵法奥秘の大星伝を許され、また吉川神道奥義の皆伝を得ている。信政は、多くの学者や技術者などの指導者を招いて産業文化を盛んにし、諸制度を整えた。
岩木川の治水と新田開発、屏風山植林、道路の整備、漆、工事、桑の栽培、紙漉座、織座の設置など、大いに発展した。
弘前八幡宮の祭礼、岩木川の祭礼が初めて行われ、弘前藩庁日誌もこの頃に始められた。山鹿素行の「中朝事実」初版は、津軽で発行された。
五代 信寿(のぶひさ)
天災や火災などが打ち続いて、領民の生活が窮乏した。借財の返済延期、備荒貯蓄、倹約などの令が多く出されている。信寿は、小野派一刀流の奥義を窮めた。武芸の人であり、学問も好み、折々の詩歌や俳句で「独楽徒然集」を著している。
弘前の夏祭りであるねぷた運行の様子が、この頃に始めて記録に残され、官選の「津軽一統志」も編集された。
南部との領界争いは、元禄の国絵図によって解決している。
六代 信著(のぶあき)
信寿の嫡孫。災害と凶作が続き、財政に苦しみ、藩政が行き詰った。その打開策として、借米制度、新田残らずの検地、富豪者からの米の調達を行い、また、訴訟箱を設けて藩政の改善を図った。
信著は俳諧を好み、「沾峨」と号した。八台将軍吉宗の影響を強く受け、常に文武を奨励、精勤者には城中で催す能見物を許した。
産業面では、漆の植栽を命じている。
七代 信寧(のぶやす)
寛永二年(1749)、宝暦五年(1755)、天明三年(1783)の大飢饉、明和3年大地震と、天災が打ち続いて領民の生活が困り果てた。信寧は儒者を招聘・登用して、宝暦の改革を断行、士風・風俗を正し、殖産の興業を大いに推進した。
水車の導入・鍬鎌の製造、耕作指導書の普及などもそのひとつである。信寧はまた俳諧を好み、「千路」と号し、藩士には文武を大いに奨励した。
八代 信明(のぶあきら/のぶはる)
津軽では、天明の飢饉の折、領内の人口に3分の1に相当する八万余りの死者を出し、全耕地の2分の1が荒地と化した。子のさなかに後を継いだ信明は、死者の供養や復興に心を砕いた。他藩に例にない藩士の土着制度を採用、また備荒貯蓄制度を創設、これらの政策は九代寧親に引き継がれた。
幼少のころから詩文をよくし松平定信(白川楽翁)、細川重賢(銀台)としたしく交わり教えを受け、賢君の名が高かった。
九代 寧親(やすちか)
信明の末期養子として黒石藩から迎えられ、八代の政策を受けて大いに成果が上がった。特に、荒田の開墾と藩士の土着制の実施が注目される。また、犯行の創設と、本丸櫓(現天守閣)の再建も特筆できる。しかし、末期には財政窮乏、農民一揆がおこった。
寧親代、蝦夷地への派遣警備により、文化七年(1805)7万石、同五年(1808)10万石に高直りした。
俳諧を好み、書画をよくし、文武諸芸、医学の振興をはかった。
十代 信順(のぶゆき)
寧親隠居の跡を継いだ。徳川家斉が大御所として実権を握っていた頃である。津軽では、天保の大凶作から財政が極度に窮乏、領内の富豪の者に御用金を科し、大阪からは莫大な調達金を得、家中には1日4合の天持菜銭、藩札を発行するなどの打開策が試みられた。
信順は、俳諧を好み、吉川神道を修めた。
武士には文武を奨励、また、学問所で出版した四書五経を家中外にも頒布した。
十一代 順承(ゆきつぐ)
信順の隠居を受け、黒石の左近将監順徳(のちの順承)が跡を継いだ。
ペリーが来航したり、沿岸警備が重要視された時である。反省では、倹約と行政整理を進め、領内への異国船の出現に対して、青森や平館などに大砲を備えたり、東北諸藩とともに幕府から蝦夷地警備を命じられ、西洋式砲術訓練なども実施した。世子の承とみ(しめすへんにふるい)(つぐとみ)が没したため、九州熊本城主細川家から養子を迎え、幕末・明治維新の難局を乗り切る基盤を築いた。
十二代 承昭(つぐあきら)
順承の隠居を受け、承烈(後の承昭)が跡を継いだ。
開国の動乱が続き、佐幕、尊王攘夷などの混乱した中で、京都御所の警備や、蘭学堂の設置などの文教にも深く力を注いだ。維新では、新政府側に立ち、明治元年に、朝廷の命令をつたえる奥州触頭(おうしゅうふれがしら)となり、新政府の趣旨浸透をはかるとともに、函館戦争に派兵し、榎本武揚幕府軍と戦った。
明治2年の版籍奉還で、弘前藩知事に任ぜられ、個々の津軽藩政は終わりを迎えた。