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歴史のこぼれネタ
辰巳櫓は耐震補強工事跡がある
現在の辰巳櫓の土台は、そこそこの立派な石垣作りになっています。
しかし、本来は石垣はなかったのです。
江戸時代に地震があり、耐震補強が必要になったため、石垣で土台を補強し、また内部にもかすがいを入れるなどして補強した跡があります。
津軽にもいた!強い女性
天正七年(1959)秋田県檜山の下国安東愛希(あんどうちかすえ)勢が南津軽に侵入したときの戦いでのこと。『津軽家文書』の佐藤源司家由緒書によれば、このとき沖館城の戦いで、佐藤へ言う衛門の女房は、「城より大石ならびに摺臼等」を投げかけ、「敵四五人打ち落とし」たため、主君為信より「女の働きには健気なる仕方」と賞され、恩賞として「本知高二斗」の所領を賜ったといいます。近年、女性史研究の進展により、女性が財産を所有していたり、戦争に参加していたりといったことが明確になり、戦国時代の女性のイメージが変わりつつありますが、津軽においてもこういった勇猛な女性の記録が残されています。
津軽こぎんは農民たちの知恵と美意識の結晶
津軽地方の伝統的な民芸の一つに「津軽こぎん刺し」と呼ばれる刺繍があります。元禄十七年(1703)の弘前藩の定めによれば、農民たちは一切木綿類の着用を禁止され、日常の生活では麻を用いることを厳命されていました。のち寛政二年以降は麻布の着用を原則としながらも木綿の併用を認めました。弘前藩士比良野貞彦は、「奧民図彙」に十八世紀末の農民女性の仕事着を絵入りで紹介しており、女性の上着は津軽の「さしこぎん」で藍染めの麻布に肩から両袖と裾に刺繍がしてあり、帯は幅の狭い布を二重に締め、モンペをはくとあります。この刺繍が津軽では「こぎん」南部では「ひしざし」となり、現在に伝わっています。保温性・丈夫さ・美しさを、おのおのが追及して、今では美しい工芸品としての面を持ちますが、もともとは、農家の女性たちの高いデザイン性を持って作られ愛用された、自分たちのための日用品であったのではないでしょうか。冬は、「カッコロ」(皮ごろものつまった呼び名)という獣の皮で作った衣服を着用していました。カッコロは、犬の皮で作ったものが上等とされました。
津軽藩の藩校教育
弘前藩の藩校は、稽古館と称し、完成八年(1796)六月に開学しました。場所は追手門外、翌年には武芸道場も併設されました。しかし、藩財政の窮迫から、文化五年(1808)には施設を縮小して、城内三の丸に移転、安政五年(1858)に医学間が再開され、文久二年(1862)には種痘館も設置されました。安政6年には蘭学堂を設けて、蘭学の教育にも力を入れました。
学風は、寛政異学の禁にもかかわらず、朱子学をとらず古学を採用しました。その後、昌平坂学問所で学ぶ学者も出てきたことから、朱子学も講習するようになったようです。生徒数は、開学の当初は入学生が300人ほどで、蘭学は、熊本細川家から養子に迎えた十二代藩主承昭の提言によるものといわれ、蘭法医学を修めた町医佐々木元俊(ささきげんしゅん)が稽古館で教授をしてから本格的になったといいます。慶応二年(1866)以降は、英学も取り入れました。
稽古館では、藩士の子弟の教育だけでなく、天文暦学の導入も図り、「稽古間暦」を作成して普及させました。更に出版事業にも乗り出し、孝経・尚書・蘭州先生遺稿などの典籍を印刷出版しました。これらは、「稽古館本」と呼ばれています。
弘前藩の支藩である黒石藩には、九台藩主津軽順徳によって天保期(1830〜1844)に経学教授所が設置されます。朱子学に重点を置いた教育がなされ、藩士の師弟は同教授が、庶民の師弟にも門戸を開いていたようです。黒石藩からは、本藩弘前藩の稽古館への留学の道も開かれていました。